3月12日(土)、ほとんど眠れないまま一夜が明けました。
デカはゴハンを食べてトイレもして、有難い事に元気です。
明るくなって改めて、アパートの状況をチェックしました。
建ってから3年のせいか、見た感じでは影響は特にないようです。
部屋の中は冷蔵庫の位置が少しズレた位で、壊れた物もありませんでした。
ライフラインは電気と水道がストップ、ガスは通っていました。
食料はそこそこ冷蔵庫に入っているし、ペットボトルのお茶やお菓子も在庫アリでOK。
毎晩お風呂でリハビリをしていたおかげで、水が張ってあったのもラッキーでした。
しばらくトイレは何とかなる、大の時だけ流そう。
ただ、こういう時に限って、携帯電話の電池がほとんど無く・・・
少し歩いた所に公衆電話があるので東京の実家などに連絡をしたかったのですが、
またいつ地震が来るかと思うとデカが心配で部屋を離れることができません。
アパートの隣の棟は電気が通っているようなので、充電をお願いしてみようと訪ねました。
ある 部屋の若いカップルに、快く充電を引き受けてもらえました。
東京方面は多分大丈夫だということ、飲み物はスーパーでまだ売っているから買っておいた方が
いいかも、と教えてくれたりも。
充電待ちの間に朝刊が配達されて(朝日新聞をとっていたのに、その日は毎日新聞 )、
東北地方の甚大な被害を改めて知りました。
充電完了とともに、多くのメールを受信。
一番は熊本に住んでいた友達から地震直後に、次は普段音沙汰のない兄が職場からの送信でビックリ、
三鷹の姉からは「高い所へ逃げて!」と一言。
もちろん夫からも。
成田空港では降りられず、羽田空港に緊急着陸して待機させられていると書いてあります 。
私が役場から送ったメールも届いているようで、「できるだけ早く駆け付けるから」とも。
それから、私の陶芸の先生であり、茨城での数少ない友人の一人でもある同年代のY子さんは、
夫がアメリカ出張中であることを知っていた為、私のことをとても心配してくれたみたいでした。
それらのメールには出来る限り簡潔に返信をしましたが、すぐには届かなかったようです。
お昼が過ぎ、これからどうしようかと考えました。
夫はいつ戻れるか分からないし、アパートの住人も他へ避難する中、もう一晩過ごすのは不安だし。
デカのゴハンとトイレが済んだら、日が暮れる前に歩いてまた役場に避難しよう、
と決めて荷物の用意をしていると・・・
Y子さんが小学生の子供二人と一緒に来てくれたのです!!
私が役場に避難していると夫から聞き、役場に行って捜したけれど見つからなかったから、って。
辺りの道路は裂けて盛り上がったり曲がったり、信号も止まったまま、
普段は大きなバンを乗り回すY子さんも、流石に運転は怖くて足が震えてしまったと。
それでも辿り着けたのは、息子K君の「アパートまで行ってみようよ!」という一言があったから
だそうです。
玄関の扉を開けて、目の前の3人を見た時の自分の気持ち、言葉では言い表せません。
「私のこと、助けに来てくれたんだ・・・」
Y子さんの家では電気が復旧し、水もまだ出るとのことです。
デカと共に避難させてもらい、夫の帰りを待つことにしました。
お米をたくさん炊いて彼女が作ってくれたオニギリが、なんと心に染みたことか〜
日が暮れた頃に夫が到着。
羽田空港から成田まで動いていた数少ない電車に乗り、成田空港近くの駐車場に停めておいた車で。
道路もひどい状態で、よく無事に戻ってこられたなぁ。
その後、Y子さんのご主人も出張先から帰宅され、家族全員揃っての夕食となりました。
前日のデカとの心細い夜とは正反対の、明るく温かな食卓で、信じられない気分でした。
その晩は一階リビングに布団を敷き詰め、まるで合宿状態です。
ウトウトしても初めは余震で目が覚めましたが、Y子さん家族4人と夫にデカ、
みんな一緒だと思うと怖さは半減、疲れがドッと出たのか、深い眠りに落ちていきました・・・
最後に一枚、全く関係の無い写真(笑)
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ソチオ・デラックス |